2024.02.29

気候風土が似た北方圏より、自然と調和した暮らし方を学ぶ。

北の住まい設計社とは

北海道東川町にある廃校になった小学校を工房に構える北の住まい設計社は、北海道旭川市出身の渡邊恭延さんが1978年(昭和53年)に創業した会社だ。渡邊恭延さんは、北海道の大学で意匠設計 をまなび、旭川の設計事務所に勤め、独立し立ち上げた。

東川町へ工房を移したのは、7年後の1985年(昭和60年)だそうだ。

「自然のリズムと共に働き、永く使い続けられる北の住まいづくり」 というビジョンを掲げた渡辺恭延さんは、設計事務所で縁があった職人を連れ、まずは家具製作からスタートを切った 。

穏やかで静かな存在感をもつ家具は、古くからの教えを忠実に守り、永く使うことで味わいが深くなるように、一つ一つ工夫を凝らして手仕事で製作されている。木部は北海道の木を使用している。

2001年より家づくり部門を独立させ「北の住まい建築研究社」を設立。家具製作で培った精度の高さと、微妙な色合わせ、樹種の組み合わせなどのセンスは、シンプルな空間だからこそより引き立つ。

画像上、画像下:北の住まい設計社

設計と施工、外構まで自社で手掛け、自社の家具を使ったインテリアコーディネートまでトータルで提案することから、個人住宅だけでなく宿泊業など商業施設、クリニックからも受け、道内だけでなく道外からも人気だ。

画像上、画像下:北の住まい建築研究所 

北の住まい設計社と北欧のつながり

創業者の渡邊恭延さんは、設計事務所で働いていた頃から、単にビジネスとして物事を捉えるのではなく、もっと生き方の本質を見つめ直したいという想いがあった。その想いが確かなビジョンとなったのは、夫婦でフィンランドへ滞在した時だったという。

――フィンランドへ滞在したきっかけを教えてください。

渡邊恭延 今村源吉先生のご紹介です 。当時は北海道教育大学教育学部旭川校の先生だったかな?日本で歩くスキー(クロスカントリー)の基盤をつくられた体育の先生ですがね、先生がフィンランド留学へいった時にお世話になったホストファミリーを私たちにご紹介くださり、妻の雅美と滞在しました。

渡邊恭延 今村先生は1967年(昭和42年)に単身でスキー留学にいかれた方でね、当時、日本でスキー留学というのも最初だったんじゃないかな?

デザインの関係者のつながりで北欧に滞在したのかと思いきや、意外にも「自然環境と生活スポーツ」に関連する大学の先生のつながり だった。今村教授を調べていくと、北の住まい設計社との共通項がみえ始めた。

自然や風土がつながる、生活スポーツとは?

北海道教育大学教育学部旭川校 教授だった今村源吉教授は、文部省在外研究員としてフィンランドへ留学をした。留学の目的は、極北の 冬の生活の中で、スキーがどのように位置付けをされているのかを見極めることだったようだ。

今村教授は、フィールド調査を重ねていく中で、森をこよなく愛するフィンランド人は、自然と生活の間に生まれた生活スポーツ を基盤とした歩くスキー(クロスカントリー)をスポーツ文化へと発展させことを知る。

帰国後「歩くスキー理論と実践(1974年(昭和49年)北海道教育大学寒冷地体育研究会編)」という論文を発表し、歩くスキーの実践理論を提唱した。

渡邊恭延 私たちの子ども時代は、スキーは移動手段であったし、スキーに適した斜面ですべる遊びだったからね。レジャーという感覚はなかったかな 。

1972年(昭和47年)札幌オリンピック開催がひとつの契機となり、次々に北海道の山にスキー場がつくられていった。しかし今村教授は、環境に負荷をかけ観光客にレジャーを提供する流れに疑問を感じていたようだ。

画像:スキー 冬 雪 – Pixabayの無料写真 – Pixabay

「歩くスキー(クロスカントリー)」 は「囲い込まれた」施設ではないため森を切り開く必用はないスポーツだ。今村教授は、北国の冬の生活の中から生まれた、自然との対話・理解・調和といったベースの上に成り立つ歩くスキーを広めようと努めたようだ。

恥ずかしながら、私は、自然や風土がつながる暮らしの上に、スポーツ文化が成り立っているとは全く知らず、どうもこのあたりが「北のものづくりを通して生活文化を築いてきた『北の住まい設計社』」 が大切にしていることと重なっているように見えた。インタビュー後、北海道と北欧の交流について調べた。

北欧と北海道の交流と共通項

北海道と北欧圏は、長年にわたり交流が続いていたが、特に1970年代からは更に交流が盛んなことがわかった。 当時、堂垣内尚弘道知事が提唱していた「北方圏構想」により、北海道と気候や風土の類似している北方圏などとの経済、文化、学術などの交流を積極的に推進し交流を深めた。北海道より厳しい自然条件の中で、自然と共存しながら優れた生活環境を築いている地域が数多くあり、交流を通じて先進事例を学び、都府県には例のない独自な発想のもとに活動を行っている。

交流の一例をあげると、1976年(昭和51年)には北海道フィンランド協会が発足し、今村教授は、初代会長として旭川市とフィンランド・タンペレ市との友好に多大な尽力をされたそうだ。フィンランド人のホームステイの受け入れや、福祉、博物館、デザインなど多方面にわたり視察団の派遣があった。

画像:摩周湖 by g-punt (ID:5352581) - 写真共有サイト:PHOTOHITO

スキーの分野でいえば、フィンランドから「輸入」された歩くスキー(クロスカントリー)の普及により、むやみやたらにゲレンゲをつくらず、豊かな森を維持しながら、スポーツ文化とスポーツ観光を発展させていく契機にもなった。

北欧との交流の背景には「これからは北の国に住む生活者こそが、風土に適した北の住まいの在り方やライフスタイルの提案をしていこう」といった、生活文化を基盤として産業へと発展させるという趣旨の指針があったようだ。

それらの指針は、北海道の各大学の垣根を超えて共有され、文化運動のようなものへとつながっていったのだろう。

画像:不消ヶ池と山脈 – No: 2846739|写真素材なら「写真AC」無料(フリー)ダウンロードOK (photo-ac.com)

自然を大切にしながら北の文化を発展させた北海道は、森林面積は断トツ日本一で、北海道の面積の7割が森林で、うち68.7%は広葉樹だ。豊かな森や国立公園もあることから、世界中から多くの人が、観光や別荘を目的に北海道を訪れている。

廃校になった小学校に森をつくる

写真:旧小学校。地域の校舎や体育館は地域の財産のため、面影を残しつつ、自社で修繕をしながら維持している。北の住まい設計社の家具製作の作業場として使われている。

――旭川市から東川に移住したきっかけを教えてください。

渡辺恭延 移住のきっかけは、アーティスト として東海大学に来られていたアメリカの先生から、廃校になった東川町立第五小学校のご紹介を受けことです 。

―――当時の東川町はどんな様子でしたか?

渡辺恭延 廃校になった小学校近辺は殺伐としていました。小学校ができた当初は、東川町は農業開拓が行われ、数々の農家が東川に住んでいたのでしょう。

しかし、その後農業を辞める人が多くなり、廃校になったと思われます。学校の前に広がる農地も荒れていました。

私はこの殺伐とした景色をみて、「この土地は森に還す!」と決めました。しかし小学校のグランドは、土を固くするために石灰を撒いていたので、樹々が生える土壌ではありませんでした。

北の住まい設計社の敷地内には、作業場として使っている旧小学校の他に、いくつもの 別棟がある。木材倉庫、工場、ショールーム、カフェなどとして使われており、森の中に建物が佇んでいる印象を受けた。

――忙しい合間をぬって、どのようにこの土地を森として育てていったのでしょうか。

渡辺恭延 気長な作業ですが、まずは、木が育つ土壌へ時間をかけて戻すことです。平らに整地された土地に自然な傾斜をつけ、水の流れをつくります。また、この地域の木(白樺、イタヤカエデ、ミズナラ・オニグルミ他)に目印をつけ挿し木をして増やしました。

また、落ち葉は掃かずにそのまま土に残せば、落ち葉の間に木の実が落ち、芽吹きます。

仮にグランドの上に樹々の種が落ちてもなかなか芽吹きませんが、落ち葉には持続的に命が循環させる役割があるのです。

我が社の工場と工場の間にも、できるだけコンクリートをしかず砂利道にしています。スタッフと共に森にしていきました 。

話は変わるけど、そーいえば、紀州にも何代もつづいている林業家がいるでしょ

―――紀伊半島には老舗林業家は多いので、土井林業?山長商店でしょうか?

渡辺恭延 ちがうな。

――速水林業さんですか?

渡辺恭延 そうそう!以前、講演で一緒になったことあるよ。

速水林業は、人が手を入れることにより、人工林でありながら、約240種の植物種が存在する持続可能な山林をつくる林業経営で有名だ。私は北の住まい設計社との共通点を感じた。

北の住まい設計社は、ものづくりにおいて、日々の仕事場で自然を感じとり、与えられる恵みの多さを知り、自然との繋がりの中で生かされている感覚をとても大事にしている。

北の住まい設計社の拠点であるこの旧小学校は、ある意味、北の住まい設計社の象徴だと思った。

東川町に移り住んだ当初は、ひどく荒れた土地だったが、長い時間をかけて自分たちで手入れをしていき、自然の豊かさを取り戻すことができている。今では、この土地にリスやモモンガ、キタキツネ、エゾシカが戻っているそうだ。

移転した当時は、雨漏りがひどく、雪に埋もれさびれた校舎だったが、自分たちで修繕し、再生をしていくことに意義があると考え、地域のシンボルとして維持管理してきた結果、1928年に建てられた校舎は、95年経った今もなお作業場として使われている。

渡辺恭延 長い時間軸でこの東川町の未来をどのように描いていくのか?を考えることが大切ですからね。

写真:北の住まい建築研究社より提案する小屋「NEST

北の住まい設計社で育った森は、この会社の歴史や哲学を物語っているようにみえた。(つづく 第二話

*参考資料
北の住まい設計社 
北の住まい建築研究社 
北海道フィンランド協会 フィンランドと北海道の国際交流
北海道セブンスタースキー組織委員会沿革
北海道教育大学学術リポジトリ「自然」へ開かれたスキー :「歩くスキー」の理論に学ぶ 文:前田和司
公益社団法人 北海道国際交流・協力総合センター
北海道森林管理局
一般財団法人士別市スポーツ協会 ピヒカラ樹氷歩くスキー大会

インタビュー
渡邊恭延(わたなべ・やすひろ)
北海道生まれ。大学で意匠設計を学び、設計事務所に勤める。1978年に独立し㈱北の住まい設計社を設立。代表取締役社長となる 。設立後7年目(1985年)に、旭川市から東川町に移り、廃校になった小学校を自分たちで修繕しながら再生をし、家具製作の作業場として活用する。2001年より㈱北の住まい設計社から独立させた (有)北の住まい建築研究社を設立し 代表取締役社長となる。

聞き手・文 :(有)小川耕太郎∞百合子社 代表取締役 小川百合子 
主な仕事は持続可能な商品の一般化のための啓蒙とPR。 1998年、山一證券が倒産した年に、夫婦で起業する。地域の生物資源と産業(技)と自然が循環できることをコンセプトとした持続可能な商品づくりを目指す。

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